「使命」を辞書で調べると、「与えられた任務」と出てくる。スピ界隈では、この「使命」という言葉を「天から与えられた任務」という意味で使われる。
この世界がより良くなるよう貢献すべく「使命」は、生まれる前から全員が持っており、
それぞれが自分の使命に氣づき、使命の道に進めば、世界のお役に立ってしまう上に、自身も生きやすくなる。
という感じ。
「スピリチュアル」というジャンルが盛り上がり始めた2012年ごろから、「自分の使命は何か」を知りたがる人が増えた。私もそうだった。
でもね、ある日、思った。
興味が湧いたソレをやり、氣の向くままに続けていると、自分がやるソレを喜ぶ人が出てきて、さらに続けていると、いつの間にか上達していて、喜ぶ人の数がたっくさんになっていた。
そうなって初めて、「あぁ、ソレをやることは、私の使命だったのか。。。」と氣づく。
使命って、そうゆうもんなんじゃないかな。
だから、「私の使命はなんですか?」というのは、「私が興味のあることは何ですか?」と、他者に聞いているのと同じで、トンチンカン。
自分が興味の湧くものは、自分しか分からない。
「あなたが好きなこと、ワクワクすることが、あなたの使命です。」という言葉をよく目にしたけれど、
そんな言われ方をすると、「自分の好きなことが分からない。。。」「私がワクワクすることって、なんだろう。。。」と、行き詰まってしまう。
「好きなこと」「ワクワクすること」だなんて、そんな大それたことを見つけようとするのではなく、
日常で「興味が湧いたこと」を、その都度、軽い氣持ちで実践すれば良いと思う。
・なんかこの本氣になる。買うか。
・オーガニックって何?調べるか。
・ヨガ、やってみようかな。
・この店が氣になる。行くか。
・ネイル、自分でステキにできたらイイなぁ。
・水彩画、ササッと描けたらステキだなぁ。
・美味しいパスタ、作れるようになりたいなぁ。
とかとか、氣になったことは、とにかく何でもやってみる。
今となっては魚類学者のさかなクンだって、最初は、絵を描くのが好きな少年だった。
氣の向くままに、さまざまな絵を描いていたけれど、あるキッカケでタコに興味を持ち、それから魚に興味が湧き、
一種一種、魚について研究しているうちに、少しずつ魚に詳しくなり、いつの間にか、魚についてとてつもなく詳しくなっていて、
魚や、魚に関連することについてのさかなクンの知識や活動が、いつの間にか、大勢の人に喜ばれるようになっていた(仕事になっていた)。
そう。「いつの間にかそうなっていた」のであり、
「魚類学者になって人様や環境のお役に立つぞ!それが僕の使命だ!」と、魚にうんと詳しくなる前から意気込んで頑張って、今のさかなクンに至ったわけではない。
さかなクンは、ただただ、やりたいことをやり続けただけ。
自分の使命というものを知り、自分を活かして生きたいのであれば、「好きなことをやりましょう」「ワクワクすることをやりましょう」ではなく、
興味が湧いたことは何でもやってみましょう。そして、飽きたのならすぐやめましょう。これ大事(笑)
Aに興味が湧いてやり始めたら、しばらくすると飽きて、Bに興味が湧いてきた。
ならば、アッサリAをやめてBをやってみる。「私はなんて飽き性なんだろう。。。」と凹む必要はない。
少しだけ体験したことの知識が後々活きてくる。だなんてことはよくある。興味が湧いたことはなんでもやり、興味がある限り続けるといい。
「使命」と呼ばれるほどの生き方は、見つかるものではなく、興味が湧いたことをやり、興味がある限り続け、上達した先にある。
「何にも興味が湧かない」「やりたいことが無い」のであれば、日々の暮らしの中でやりたくないことをやりすぎて、心が疲弊しているのかもしれません。
いつもいつも、自分の本音(本心)を大切に。
誰かの氣持ちを優先して、自分に我慢させるのではなく、
・乗り気じゃない誘いは断る。
・引き受けたくないことは断る。
・苦手な人とは付き合わない。
・自分の考えを曲げて話を合わせない。
など、自分の心にとって不要なモノの排除をできる範囲で実践し、心が回復してくると、
「このキレイな物はなんだろう、氣になる!」「あそこへ行ってみようかな〜」「コレやってみたい!」と、興味が湧く対象が、アレやコレやと日常に現れるはず。
(^_^)(^_^)
サミー